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神戸地方裁判所伊丹支部 昭和58年(ワ)124号 判決 1990年6月25日

原告

伊藤勝三

右訴訟代理人弁護士

宗藤泰而

小貫精一郎

被告

朝日火災海上保険株式会社

右代表者代表取締役

越智一男

右訴訟代理人弁護士

和田良一

美勢晃一

宇野美喜子

山本孝宏

狩野祐光

太田恒久

河本毅

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し、金一七三万二〇〇〇円及びこれに対する昭和五八年四月二一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

(一) 被告は、火災保険・自動車保険などの各種損害保険業を営む株式会社である。

(二) 原告は、昭和二四年一〇月一四日被告会社の前身のひとつである鉄道保険部(日本国有鉄道の外部団体)に入社し、昭和四〇年二月一日右鉄道保険部が被告会社と合体したのに伴い、被告の従業員としての地位を取得し、昭和五八年三月三一日被告会社を任意退職した。

原告は、退職当時被告九州営業本部営業担当調査役の地位にあった。

2  退職金規定と原告の請求権

(一) 被告会社には、原告が退職した当時、次の退職金規定(就業規則である)の定めがあった。

(1) 勤続満二年以上の従業員が自己都合により退職した場合、退職のときの「本俸月額」に対し、まず、「退職手当基準支給率表」に携(ママ)げる勤続期間に相応する支給率を乗じ、更に「自己都合退職の場合の乗率表」に掲げる勤続期間に相応する乗率を乗じた額を退職金として支払う。

(2) 「退職手当基準支給率表」に掲げる勤続三〇年以上の勤続期間に相応する支給率は七一倍、「自己都合退職の場合の乗率表」に掲げる右勤続期間に相応する乗率は一〇〇パーセントである。

(二) 原告の退職時の「本俸月額」(退職当時の給与支払区分では本人給と職能給の合計額がこれに該当する)は三一万四〇〇〇円であって、その勤続年数は三三年五か月である。

そこで、原告は被告に対し、次の算式により金二二二九万四〇〇〇円の退職金債権を有している。

三一万四〇〇〇円×七一×一〇〇%=二二二九万四〇〇〇円

3  被告の支払った退職金額

被告は原告に対し、昭和五八年四月二〇日退職金として金二〇五六万二〇〇〇円を支払ったのみである。

4  結論

よって、原告は被告に対し、退職金二二二九万四〇〇〇円からすでに受領した金二〇五六万二〇〇〇円を控除した残額金一七三万二〇〇〇円及びこれに対する前記一部支払の日の翌日である昭和五八年四月二一日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2の事実中

(一) (一)は認める。

(二) (二)のうち、原告の退職時の「基本給」が月額三一万四〇〇〇円であったこと及びその勤続年数が三三年五か月であったことは認め、その余は争う。

3  同3の事実は認める。

三  被告の主張

1  被告会社と全日本損害保険労働組合朝日火災支部(以下「組合」という)との間の労働協約六六条は、組合員の労働条件のみならず、非組合員(管理職)を含む総ての従業員の労働条件を被告会社と組合との間の「協議決定」事項として定めている。

2  被告会社、組合及び非組合員たる従業員の間には、被告会社と組合との間で「協議決定」した労働条件については、非組合員たる従業員に対してもその効力を生ずる旨の「包括的合意」が存在した。

仮に合意がないとしても、組合結成以来原告退職時に至るまでの右のような「慣行」の存在により、右労働条件は、非組合員たる従業員に対しても法的拘束力を有する。

3  被告会社と組合との間で各年度に「協議決定」する「賃金増加額」及び右「増加額」を退職金算出の基礎額にはねかえらせるか否かという「増加額支給条件」のいずれも、前記協約に定める労働条件の一つである。

4  被告会社と組合は、昭和五四年度ないし昭和五七年度の「賃金増加額の支給条件」として、右各年度の「賃金増加額」は退職金算出の基礎額にはねかえらない旨「協議決定」した。

5  右労使間の協議決定事項は非組合員たる従業員に対しても周知徹底されている。

6  したがって、右協議決定事項は、非組合員たる従業員に対しても法的拘束力を有する。

7  原告は、「退職手当規程」三条一項の文理解釈を誤っている。

すなわち、退職手当規程三条一項の文言は、「退職の時の本俸」となっているが、ここにいう「本俸」とは、退職手当規程である以上「退職金算出の基礎額となる本俸」の意であることは明白であり、単に、本俸という名称のみを根拠として、それが退職金算出の基礎額となるとの解釈はとれない。けだし、昭和五四年度以降、各年度に発生し、原告の取得した「本俸(基本給)増額請求権」の内容は、右のように、退職金算出の基礎額とはならないものであったからである。

8  原告の本件請求には、要件事実が欠缺している。

まず、右7に述べた退職手当規程の文理解釈を誤っている。

次に、原告は退職手当規程三条の文言を根拠として本件請求を行っているが、本件請求を理由あらしめるための前提となる法律要件としては、第一に、昭和五四年度以降各年度の本俸(基本給)「増加額」について、これが、退職金算出の基礎額にはねかえるという性格をもつものであったこと、すなわち、退職手当規程三条にいう「本俸月額」の中に、右「増加額」が含まれるものであったとの点、そして第二に、右はねかえるということにつき、原告と被告会社との間に合意の存在したことが必要である。

しかし、右第一及び第二のいずれの点をとってみても、本件ではその要求が欠缺している。

9  原告の本件請求は信義則に反し、権利の濫用である。

昭和五四年度以降、各年度の本俸増加額について、原告は、これが退職金算出の基礎額とはならない旨を知りつつ、在職中には何ら異議をとどめず右増加額を毎月受領しておきながら、一旦退職するや、かかる事情を一切無視して本件のような請求に及ぶということは、組合の元執行委員長あるいは被告会社の管理職たる地位にあった者として、信義則に悖るものというべく、信義則違反あるいは権利の濫用として到底許容されるべきではない。

四  被告の主張に対する認否

1  被告の主張1の事実は認める。

2  同2の事実は否認する。

3  同3の事実は否認する。

4  同4の事実は、昭和五四年度に関する部分を除き、否認する。

5  同5の事実は否認する。

6  同6の主張は争う。

7  同7の主張は争う。

8  同8の主張は争う。

9  同9の事実中、原告が組合の元執行委員長あるいは被告会社の管理職たる地位にあった者であることは認め、その余は否認する。

五  被告の主張に対する原告の反論

1  仮に労使間に昭和五五年度から昭和五七年度までの退職者についてその退職金の算出基礎を昭和五三年度本俸とする旨の合意がなされたとしても、右合意が成立したのは、被告と組合との間で昭和五八年五月九日付協定書が作成された同年七月一一日であるから、これより前の同年三月三一日に退職した原告が既に取得した退職金請求権には、何らの消長をきたさない。

2  仮に昭和五七年度賃上げ交渉において、労使間に昭和五七年度の退職者についてその退職金の算出基礎を昭和五三年度本俸とし、昭和五四年度以降の基本給昇給額部分は基礎額に算入しない旨の合意がなされたとしても、右合意は書面化されていないから、労働組合法一四条所定の労働協約としての一般的拘束力を有しないので、非組合員である原告には適用されない。

六  原告の反論に対する認否

1  原告の反論1の事実中、昭和五八年五月九日付協定書が同年七月一一日に作成されたことは認め、その余は否認ないし争う。

2  同2の事実中、原告が非組合員であることは認め、その余は否認ないし争う。

第三証拠(略)

理由

一  請求原因1、同2の(一)及び同3の各事実並びに原告の退職時の「基本給」が月額三一万四〇〇〇円であったこと及びその勤続年数が三三年五か月であったことは、当事者間に争いがない。

二  そこでまず、原告の退職時の本人給及び職能給の合計額が被告会社の退職金規程の「本俸月額」に該当するか否かを検討すると、当事者間に争いのない事実に成立に争いのない(証拠略)及びこれによって真正な成立が認められる(証拠略)並びに弁論の全趣旨を総合すれば、

1  被告会社の退職金規定は、昭和四六年一〇月一日付退職手当規程として同日から施行された就業規則であり、その三条によれば、退職手当の基準額は、退職のときの「本俸月額」を基礎として算出した額とされていること

2  右退職手当規程は、原告が被告会社を退職した昭和五八年三月三一日現在も就業規則として効力を有していたこと

3  被告会社の賃金体系は、昭和五七年二月二六日付の被告会社と組合との間の協定書(労働協約)及びこれと同内容の就業規則(昭和五六年四月一日付新人事制度体系)により、従来の賃金体系を改訂して昭和五六年四月一日から職能給を含む新体系に移行するものとされ、その移行措置として、昭和五五年四月一日の従業員各人の類、年齢及び入社年度に基づき、各人の基本給(本俸+類手当)を本人給と職能給に分け、右本人給と職能給を合わせたものを新しい基本給とし、所要の調整を施す旨の改正がなされたこと

4  その結果、月例給与及び賞与に関する労働協約及び就業規則の上では「本俸」の語が廃止されたが、退職手当規程の文言には何らの改正も加えられず、従来どおり「本俸」の語が用いられていたこと

5  右「本俸」の語は、昭和五八年五月九日付の被告会社と組合との間の協定書及びこれと同内容の就業規則(同年四月一日付退職金規定)により、同年四月一日から「基本給(本人給+職能給)」と読み替えられることになったが、原告の退職時である同年三月三一日にまで遡って右「本俸」の語を「基本給(本人給+職能給)」と読み替える旨を定めた労働協約又は就業規則は存在しないこと

の各事実が認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

以上によれば、原告の退職時における退職金算出の基礎額は、右退職時点における本人給及び職能給の合計額としての「基本給」ではなく、あくまで「退職のときの本俸月額」であるといわなければならない。

そして、原告が退職した昭和五八年三月三一日には既に「本俸」なる賃金項目は廃止されていたのであるから、右時点における退職手当規程を合理的に解釈すれば、「退職のときの本俸月額」とは、原告の退職時に最も接着した時点における原告の本俸月額であると解するほかはないところ、原告本人尋問の結果によって真正な成立が認められる(証拠略)の全趣旨によれば、右本俸月額は、昭和五五年四月一日から原告に支給されることとされた三〇万六三〇〇円(昭和五五年度本俸)であると認められ、右認定に反する証拠はない。

三  そこで次に、前記本俸月額が無条件に原告の退職時における退職金算出の基礎となるか否かを検討すると、当事者間に争いのない事実に(証拠略)によって真正な成立が認められる(証拠略)を総合すれば、

1  原告の本俸月額は、昭和五二年四月一日に二八万七六〇〇円、昭和五三年四月一日に二八万七六〇〇円、昭和五四年四月一日に二九万九五〇〇円、昭和五五年四月一日に三〇万六三〇〇円と、昭和五三年を除いて逐年増額され、昭和五六年四月一日からは前述の賃金体系改訂により「本俸」という賃金項目自体が廃止されていること

2  右本俸月額の増額は、被告会社と組合との間の労働協約四条の「この協約において従業員とは、会社業務に従事する者であって役員でない者をいい、組合員及び非組合員を含む。」との規定及び同六六条の「従業員の労働条件の基準に関する事項及び労働条件に関係のある会社の諸規程に関する事項は(会社側委員と組合側委員とで組織する)協議会に付議して組合と協議決定する。」旨の規定に基づき、被告会社が組合との間の賃金交渉において協議決定した組合員の本俸の引き上げ額を非組合員(管理職)である原告にも一律に適用した結果であって、被告会社が右労働協約の規定にかかわりなく独自に非組合員(管理職)の本俸月額を決定した結果ではないこと

3  被告会社と組合は、昭和五五年三月一四日、昭和五四年度(昭和五四年四月一日から昭和五五年三月三一日までの一年間。以下他の各年度についても同じ)の賃金交渉において、昭和五四年度本俸及び類手当の引き上げ額は、同年度退職者の退職給与算出基礎には算入しない旨合意し、次いで昭和五五年一二月、昭和五五年度の賃金交渉において、同年度本俸及び類手当の引き上げ額の退職金はね返りについては、昭和五四年度引き上げ額の取り扱いと合わせて、退職金制度改訂協議の中で労使協議決定する旨合意したが、右各年度の本俸及び類手当の引き上げは、右各合意と一体をなすものとして妥結に至ったものであること

4  右各合意に至る交渉経過及び妥結内容については、非組合員である原告を含む管理職に対しても、被告会社の人事部から各人宛て配布される「労使問題速報」その他の資料によって遅滞なく周知されていたこと

の各事実が認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

以上によれば、被告会社と組合との間においては、昭和五四年度本俸の増額は、同年度退職者の退職給与算出基礎には算入しないとの前提のもとに合意されたものであり、昭和五五年度本俸の増額は、その退職金はね返りについて、昭和五四年度引き上げ額の取り扱いと合わせて、退職金制度改訂協議の中で労使協議決定するとの前提のもとに合意されたものであって、被告会社が右各年度の本俸の増額を非組合員である原告に適用するに際しても、右各前提のもとに適用したものであって(被告会社が非組合員にのみ無前提で適用したとは考えられず、また組合がそのような適用方法を容認していたとも考えられない)、原告も右事実を認識しながらその適用を受けたものというべきであるから、その結果原告に支給されることとなった右各年度の本俸は、退職金算出の基礎としては、右各前提に服するとの性質を有していたものといわなければならない。

四  そこで更に、前記各前提に含まれる労使間の退職金制度改訂協議の推移を検討すると、(証拠略)を総合すれば、

1  被告会社と組合は、前記賃金体系改訂後の昭和五七年度の賃金交渉においても退職金制度改訂協議を継続したが、結局同年度中には完全合意に達せず、原告が退職した後の昭和五八年五月九日に至り、退職手当規程の基準支給率を従来の「三〇年勤続・七一か月」から「三〇年勤続・五一か月」に改定するとともに、昭和五八年度以降の退職金算出の基礎額については、昭和五八年四月一日以降従業員各人に定められた基本給(本人給+職能給)として支給される金額全額とし、現行退職手当規程の「本俸」は「基本給(本人給+職能給)」と読み替える旨合意し、昭和五八年七月一一日、その旨の協定書(労働協約)に調印したこと

2  また被告会社と組合は、これと同時に、労使間の確認事項として「退職金の算出基礎について、昭和五四年度ないし同五七年度の賃金交渉の中で各年度の本俸(基本給)アップ分については退職金算出の基礎額には算入しない旨毎年合意をし、その通りの扱いをしてきたところである(各人の昭和五三年度本俸で固定し、それを算出基礎額としてきた)。しかしながら、本協定書締結に伴ない昭和五八年度以降の退職金算出の基礎額については、昭和五八年四月一日以降従業員各人に定められた基本給として支給される金額全額とする。これにより、昭和五三年度本俸に凍結されるという措置は解消する。」と記載した付属覚書にも調印したこと

の各事実が認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

以上によれば、被告会社と組合は、昭和五八年七月一一日、昭和五四年度から昭和五七年度までの退職従業員については、昭和五四年度以降の本俸の引き上げ額を右各年度退職者の退職給与算出基礎に算入しない旨最終的に協議決定したものというべきである。

そして、前述のとおり、被告会社と組合との間においては、昭和五四年度及び昭和五五年度の本俸増額は、その退職金はね返りについて、退職金制度改訂協議の中で労使協議決定するとの前提のもとに合意されたものであって、被告会社が右各年度の本俸の増額を原告に適用するに際しても、右前提のもとに適用したもので、原告もこれを認識しながらその適用を受けたものであるから、右協議決定自体が原告の退職後になされたとしても、それは、原告に支給された右各年度本俸の退職金算出基礎としての性質に当初から含まれていた前提が、たまたま原告の退職後に現実化したものにほかならず、これをもって原告が既に確定的に取得していた退職金請求権を遡及的に奪うものと見ることはできない。

したがって、原告としては、前記協議決定の内容どおり、昭和五四年度以降の本俸の引き上げ額が自己の退職給与算出基礎に算入されないことを受忍しなければならないものというべきである。

五  以上のとおりであるから、原告が被告に対して有する退職金請求権は、原告の昭和五三年度本俸月額である二八万七六〇〇円を基礎として算出すべきものであるところ、成立に争いのない(証拠略)によれば、被告は原告に対し、昭和五八年四月二〇日、右本俸月額に昭和五四年度人事考課に基づくメリット額二〇〇〇円を加算し、これに三三年五か月の勤続年数に対応する支給率である七一を乗じた金二〇五六万二〇〇〇円(千円未満切上げ)を退職金として支払ったことが認められ、右認定に反する証拠はない。

そして、右金額を退職金として受領したことは原告の自認するところであるから、原告の被告に対する未払退職金請求権は存在しないものといわなければならない。

六  よって、その余の点につき判断するまでもなく、原告の請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 渡邊壯)

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